私が生まれたのは、1935年。戦前、父は日用雑貨の小売業を営んでいました。商売が成功していたので恵まれた環境でしたが、戦争が始まると状況は一変。兄たちは戦争へ行き、空襲で東京は焼け野原となりました。しかし、父は実に「生命力」のある人でした。唯一の男手である私を疎開先から呼び戻し、商売を再開したのです。私の役目は、店番をすることでした。戸板の上に日用品を並べて、そこに座っているだけで、商品は売れていくのです。モノがない時代でしたから、需要は無限でしたね。大人も子どもも関係なく、できることは何でもやっていたのがあの時代です。生きるため、食べるためには、何かしなくてはならない。ある意味「開き直り」のような姿勢は、幼少期の頃に確立されたと思っています。

大学を卒業する当時、メジャーな就職先は商社か銀行でしたが、私が担当教授に勧められたのは保険業界でした。「日本」と名の付く会社はつぶれないだろうという父の助言もあり、日本生命に就職。いつも周りが予想もしないことをしていたので、会社の中では問題社員として見られていたかもしれません。ただ過ぎていく毎日が退屈で仕方なかったので、「デタラメ」なことばかりしていました。
エステー化学(当時)の社長だった兄から、呼び出されたのは51歳の頃。事あるごとに警鐘を乱打し、状況を変えていくことが私の役割でした。バブル経済の陶酔した状況下で、冷静に状態をつかめる人は少なかったのだと思います。私が社長に就任した後は、改革の嵐でしたね。人事、商品開発、販売に至るまで、あらゆる状況を覆しました。状況を好転させるには、それしか方法がなかったのです。いわゆる私は「壊し屋」ですね。
私から言わせていただくと、「生きがい」「働きがい」などという言葉は寝言同然です。学生の頃は、「生きがい」を考えるほど長く生きていないし、「働きがい」を感じられるほど経験もありません。若さだけが武器だというのに、ビクビクしていては何も始まりません。働く上で命までとられることは、そうそうありません。運と、勘と、度胸。この3つがあれば、何でも乗り越えられますよ。