私は幼い頃から、自らの向上のために試行錯誤し、リスクを取ってチャレンジすることが好きでした。ゲームやスポーツ、はたまたケンカでも「無理だ」といわれながら、強い子やできる子に勝つことがモチベーション。「図書室にマンガを入れる」という公約で生徒会長に立候補し、当選したこともありました。
その性格は今でもずっと変わりません。幼い頃からこの歳に至るまで、私は常に上を目指し生き続けてきました。何かの分野で「トップになりたい」「うまくなりたい」という思いで、練習を馬鹿みたいに積み重ねてきた人間なのです。
一方で、私は何事においても自分の能力の限界、つまり「天井」が見えてしまうと、とたんに興味を失ってしまうという性格でもありました。中学、高校でも、音楽やバイクなどさまざまなものに熱中しましたが、ある程度上達して止めてしまったものも多い。自分のスキルを「青天井」で高め、
チャレンジできる対象をずっと探していたように思えます。
大学卒業後、偶然出会った塾講師の仕事は私にとって、上を目指し挑戦を続けられる対象でした。生徒の成績アップ、合格率を上げるのはもちろん、最高の授業、最高の教材は何かを考え、追求する仕事に終わりはありません。何をもって「最高」かは人によって価値観が異なります。しかし、どのようなジャンルでも、トップレベルに達しているか否かは誰が見てもわかるもの。高いレベルを維持したうえで、自分が思う最高を目指し、現在に至るまで改善を繰り返しています。
あるとき、ふと思いました。私が常に上を目指してきたのは「飢える場所」を探していたのではないか、と。
ハングリー精神の条件として、絶対的に必要なことは客観的に何不自由なく「満たされた状態」であること。私は、そこで安住を拒み続けてきました。「上を目指す」というのは上だけを見ているのだろうか? そうではなく、自分はいつも「飢えを探し求めていた」気がします。「上ではなく、飢えを」。目指す場所へ到達するまでは飢え続ける日々となる。そして、いつの日か植えられた根から芽が出て、花が咲く。その光景、その瞬間がたまらなく好きです。ただし達成に酔う時間は、24時間以内。
夢を実現した次の日から、また私の「飢え探しの旅」が始まります。