私が父の経営する会社を継承してから36年となります。地元・岐阜県に盤石の基盤を持つ「100年企業」を継いだことになりますが、これまでの人生、決して順風満帆ではありませんでした。子供時代は、家業の繁忙により山奥の祖父母宅に預けられて育ちました。まさに「働かざる者食うべからず」を地で行く家です。毎日山から丸太を担いで下ろすという仕事をしなければ、夕食にありつけない生活。学校ではやんちゃで教師に目をつけられ、いつもぶつかっていました。
大学時代はヨーロッパ放浪旅行を経験し、就職は希望の広告業界から内定をいただいていましたが、親の「息子はそんな業界にはやらん!」の一言で内定取り消しに。結局、大手建機会社に入社することになりました。その後は仕事に打ち込み、空港建設などの大きなプロジェクトにも関わりました。しかし、不景気となり業界で厳しいリストラが始まり、自分が辞めることで誰か一人が首を切られずに済むのなら…という思いから退職。岐阜の親元に帰りました。

そして1985年に父の会社からいくつかの部門を引き継ぎ、分離独立。当時の私は土木系会社のトップとしてはまだ若く、業界特有の馴れ合いが大嫌いということもあり、「生意気だ」と散々に叩かれました。そんな中を、幼い頃から培ってきた「なにくそ!」の反骨心で切り抜けてきたのです。現在、当社は環境事業に力を入れていますが、実は環境についてはまったくの門外漢でした。25年ほど前にドイツの展示会で偶然バイオマス発電に出会い、「こんな世界があるのか」と感動し、のめり込んでいったのです。
その後、バナジウム・レドックスフロー電池や木製防音壁、土砂災害応急アンカーといった魅力的な環境系商材を海外で見出し、導入を進めてきました。私は世界中どこに行っても自ら車のハンドルを握り、「これは!」というものを見つけたらすぐに車を停め、自らの目で確認し、写真を撮って取扱い企業を調べます。「日本の国土を守り、美しい郷土を残すんだ」という強い信念があるから、アンテナはいつでも立っているし、どんな時でも行動する力が湧いてくるのです。若い方たちには、「指示待ち人間にはなるな」と伝えたいです。指示待ちは楽ですが、それに甘えているとあっという間に時代に取り残されてしまうでしょう。こうありたい、こうしたいという自分の芯を持ち、何にでも果敢に挑戦していく。そんな若者たちと、一緒に未来を作っていきたいと思っています。