私が生まれた1937年は、戦争の只中にありました。物心ついた頃には父は戦死しており、1945年に住んでいた和歌山市が大規模な爆撃を受けています。町は一面焼け野原となり、終戦時に8歳を迎えた私は、食べるために働かざるを得ない状況となりました。がれきを処理し、畑を作る作業を繰り返したことを昨日のことのように覚えています。100坪の土地を区画して毎週2坪開墾し、作物を植えるといったことを行っていました。
事業の原点である手袋編機の開発もまた、家族が生きていくためのものです。当時、母が内職で手袋を作っており、もっと楽な方法で作ることはできないものかと考案したのが、手袋の本体と手首の部分を簡単に縫製できる「二重環かがりミシン」でした。まだ16歳の時のことです。
そして会社を立ち上げたのは24歳。当初目標に据えたのは、手袋の全自動化でした。周囲からは「絶対に失敗する」と言われ続けましたが、1964年には27歳という若さながら、全自動手袋編機(角型)の開発に成功。しかし開発費用で多額の借入もあり、赤字は3000万円にも膨れ上がっていました。年を越せるかもわからない状態に陥り、毎晩寝ずに働く日々が続いたのです。

とはいえ私は、それまで一度も苦労したと思ったことはありません。誰かに仕事をやらされていたのではなく、自分で覚悟を決めてやっていた仕事だったからです。
当社の企業理念では「Ever Onward ―限りなき前進」という言葉を掲げています。仕事とは、常に今までにないものを創造することであり、今あるものは全て古い。つまり前進し続けること、挑戦し続けることは当社にとって当然の責務なのです。
現在、最先端技術を使った当社のコンピュータ横編機は、世界シェアのトップクラス。それは小学生時代に畑を作った時から、「二重環かがりミシン」を作った時もまた然り、ないものを創るという普遍的な私の姿勢から成し得てきたものです。
戦後の高度経済成長から始まり、日本は学歴を重視するような国になっていきました。しかし、学校で勉強できるのは過去に確立した知識にすぎません。とくに10代、20代は創造性が大きく育つ時期でもあり、試験のために頭を使うばかりではもったいない。若い方々はお金を儲けるだけではなく、新しい価値を創造できる人であってほしいと思います。
創造性を生み出すのは、仕事への愛です。仕事を愛するとやる気が出ます。情熱を注ぐと創造力が湧いてきます。仕事への愛は簡単には消えません。いかなる危機も乗り越える力となってくれるはずです。